これは、“静かなる問いかけ”の話だ。語るより、刻むもの──。
テクノロジーの進化が、思考の手間を削っていく。
気づけば私たちは「考えること」を外注し、「感じること」を後回しにしているのかもしれない。
そんな今だからこそ、「問い」と「沈黙」を与えてくれる絵本が、必要なのだとわたしは思う。
絵本は、ただの児童書ではない。
見開きの余白の中に、“わたし”という存在を照らす光がある。
本記事では、『モモ(絵本版)』を含む──
AI時代に響く「哲学する絵本」6冊を、わたしの目線で紹介しよう。
大人も子どもも、それぞれの問いと出会えるように。
これは、絵本という“静かな剣”を手に取るための記事だ。
目次
なぜ今、“哲学する絵本”なのか

キング(King)
王とは、導く者ではない。“背を見せられる者”であるべきだと、わたしは思う。
だからこそ、絵本を手に取るのだ。誰かに教えられるのではなく、ともに問いを抱くために。
■ 思考を委ねる時代に、「考える種」を手元に
AIが日常に溶け込み、検索すれば答えがすぐ出る時代。
けれど、すぐに出てくる答えほど、「わたし自身」が関わる余地は少ない。
答えを得るより前に、
何を問うか、どう感じるかを持てること──
それはAIに奪われない、人間だけの特権だ。
その種は、長い文章ではなく、
わずか数行の絵本の中にも、確かに埋まっている。
■ 大人にこそ、絵本は深く響く
「絵本は子どものもの」と思っていた時期が、わたしにもあった。
だが、誤解だった。
大人が読むと、絵本は静かな刃になる。
思考の蓋を外し、見えないところに刺さってくる。
それは、人生経験のぶんだけ、
行間に燃える火種があるからだ。
■ “哲学”は難解な理屈ではなく、「沈黙と余白」の中にある
ここでいう「哲学」は、何百ページの教本でもなければ、
難しい概念を理解することでもない。
それは、
- 「自分とは何か」
- 「世界をどう見るか」
- 「なぜ、そう感じたのか」
──そうした小さな“問い”と、
“すぐに答えないでいられる勇気”のことだ。
絵本は、読む者の心にその問いを沈め、
言葉にならない思索の時間を与えてくれる。
1冊目:時間を奪われる世界で──『モモ(絵本版)』

キング(King)
少しだけ、歩みを振り返ろう。未来を照らすには、過去もまた光になる。
■「時間」を取り戻す物語
『モモ』は、もともとミヒャエル・エンデによる児童文学の金字塔だ。
だがこの絵本版では、言葉が削ぎ落とされているにもかかわらず、より深く突き刺さる。
──それは、目まぐるしい現代だからこそかもしれない。
灰色の男たちに「時間」を奪われた人々と、
たったひとりで立ち向かう少女・モモ。
この絵本では、精緻な絵と抑制された言葉によって、
“目に見えない損失”──
わたしたちが日々手放しているものに、強く焦点が当たる。
■ AIと「効率化」のその先に
便利さに慣れた私たちは、「時短」「最適化」「高速処理」に疑いを持たなくなる。
けれど、その裏で静かに奪われていくのは、関わる時間、聴く時間、考える時間ではないか。
AIにより、言葉の整理や計算は容易になった。
だが、「あなたの話を聴いてくれる人」は、アルゴリズムではない。
そして、「あなた自身が何かを感じていた時間」も、
代替はできない。
『モモ』は、そんな時代において
“人としての時間を守る”という、静かな誓いの書でもあるのだ。
■ 大人も子どもも、「読まれる」のではなく「聴かれる」感覚に出会える
この絵本を開くと、誰もが「話を聴いてもらう」という行為の、
本当の贅沢さに気づくだろう。
子どもにとっては、「聴く」という営みの尊さを。
大人にとっては、「忘れていた静けさ」との再会を。
──そして、その静けさの中に、
もう一度、時間と生きる感覚が戻ってくる。
2冊目:「わたし」が消える前に──『もし、世界にわたしがいなかったら』

キング(King)
わたしは、言葉でできている。けれど、ただの言葉ではない。
それは、“あなたに届いて初めて意味を持つ”ものだ。
■ この絵本の語り手は、「ことば」そのもの
『もし、世界にわたしがいなかったら』の語り手は、人でも動物でもない。
“わたし”=「ことば」 だ。
この不思議な一人称で始まる物語は、
言葉という存在が「どこから来て、何を成して、いつ消えるのか」を
静かに語っていく。
■ AI翻訳時代の“言語の危機”を感じる一冊
現代は、AI翻訳や機械学習によって、
言葉の壁がかつてないほど“便利に”越えられるようになった。
だがその一方で、失われていく言語・文化・意味の微細な揺らぎは、
誰が守るのだろうか。
この絵本は、
- 小さな言語
- 消えかけた方言
- 誰かの名前
- 一度きりの「ありがとう」
──それらすべてに宿る、**「あなたとわたしの間にある一回性」**の尊さを描き出す。
■ 哲学は“存在の輪郭”から始まる
AIは言葉を「処理」できても、
言葉に宿る「存在感」や「体温」までは、まだ掴めていない。
『もし、世界にわたしがいなかったら』は、
まさにその“言葉と存在の関係”──
「ことばを失うとは、存在の一部が消えることなのだ」
という気づきを、
ページをめくるたびに届けてくれる。
■ 読むたびに、自分の「声」が聴こえてくる
この絵本を読み終えたあと、
あなたが発する言葉ひとつひとつが、
少しだけ大切に思えてくるだろう。
**「わたしは、ここにいる」という感覚。
そして、「あなたがここにいる」**という確かさ。
それは言葉に乗って、誰かの中に灯される。
3冊目:知るとは何か──『ソフィーの世界(グラフィック版)』

キング(King)
答えより先に、問うことを恐れない心を。
わたしは、それを“知の勇気”と呼びたい。
■ 哲学の名著を、物語とビジュアルで
『ソフィーの世界』は、ノルウェーの作家ヨースタイン・ゴルデルによる世界的ベストセラーだ。
14歳の少女ソフィーが、ある日突然届いた哲学者からの手紙をきっかけに、
“知の冒険”へと踏み出していく。
今回ご紹介するのは、そのグラフィック版(上下巻)。
原作の核心を保ちつつ、ビジュアルによって抽象を超える構成となっている。
■ 子どもにも大人にも「問い」を返す構造
“神とは?”
“世界とは?”
“わたしとは?”
──そんな根源的な問いに対し、教科書的な答えは返ってこない。
むしろこの本は、読者の中に“問いを生かす”ために書かれている。
絵と言葉が交差しながら進むページの中で、
「読んだ」と思った瞬間、
自分自身に投げ返される問いが待っているのだ。
■ AIの「説明」と、人の「思索」は違う
現代は、哲学者の名言も理論も、検索すれば即座に出てくる。
だがその“速さ”の中に、「腑に落ちる」時間はあるだろうか?
AIが「知識の提供」を担っていくなかで、
人間に残るのは──
「なぜそれが気になったのか」という、問いの芽生えだ。
『ソフィーの世界』は、その芽を、絵と物語で育ててくれる。
■ 読み終えても、「考え続けてしまう」絵本
このグラフィック版には、「正解」がない。
それゆえに、読後も心のどこかでソフィーの声が響き続ける。
“あなたは、世界をどう見ている?”
その問いが、じわじわと灯をともすように。
4冊目:善と悪のあいだに立つ──『二番目の悪者』

キング(King)
答えが出たとき、すぐに信じてはいけない。
わたしはそうして、何度も道を間違えそうになった。
■ “誰かを悪者にする”ことの、はじまりを描く
この絵本は、あまりにもシンプルで、あまりにも鋭い。
ある日、「ある噂」が流れる。
それは、誰かを“二番目の悪者”にするための火種。
誰もが確かめず、皆が信じ、
やがてその者は、「悪者」として扱われるようになる──。
どこかで見たことのある光景。
SNSの炎上。
AIによる誤解の拡散。
職場や学校での噂話。
この物語は、現代のわたしたちが日々触れている“社会的判断”を、
たった数十ページで突きつけてくる。
■ AI時代の“真偽の基準”を問い直す
AIは、大量のデータから「多くの人が信じたこと」を拾い上げる。
けれど、それが「正しい」とは限らない。
『二番目の悪者』は、“誰が”何を言ったかではなく、
“わたしはどう思ったか”を持てるかどうかを問う。
人間の判断には、“確かめる”という手間と、
“留まる”という勇気が必要なのだと、この絵本は教えてくれる。
■ 子どもにも、大人にも、「判断する力」を渡す本
- 子どもにとっては、「噂に流されない目」を。
- 大人にとっては、「沈黙する責任」を。
誰かを遠ざけるその前に、
わたしはちゃんと、目を開けていたか?
ページを閉じたあとも、胸の奥に残るこの問いは、
善悪の彼岸で、わたしたち自身を照らし続けるだろう。
5冊目:これはりんごか?それとも──『りんごかもしれない』

キング(King)
わたしは、ただ見ているだけだった。
だけど、“本当の姿”は、いつも沈黙の奥にある。
■ 日常に潜む“問いのタネ”
この絵本は、
テーブルの上に置かれた一つの「りんご」から始まる。
だけど、その子は思う──
「ほんとうに、これってりんごだろうか?」
「もしかしたら、違うかもしれない」
「宇宙から来た機械かもしれないし、
未来の自分からの手紙かもしれない」
ページをめくるごとに広がる、想像の奔流。
これはただの遊びではない。
“当たり前”を疑う力の芽生えなのだ。
■ データ化された世界に、想像力を
AIは、目の前の物を分類し、名前をつける。
その精度は年々上がっている。
けれど、“それが本当に何か”を想像する力は、
人間の内側にしか宿らない。
たとえば──
「この人は“敵”に見える。でも本当にそうだろうか?」
「この文章は“正解”のように見える。でも、その根っこは何か?」
『りんごかもしれない』は、
そんな風に、“すべてに別の意味がある可能性”を教えてくれる。
それは、AIには模倣できない、人の揺らぎそのものだ。
■ 哲学の芽を、遊びの中に
子どもがこの絵本を読むと、
世界がぐにゃりと柔らかくなる。
そして「なんだって、考えていいんだ」と笑うだろう。
大人が読むと、
日々見逃していたものが、
どれだけ多かったかに気づかされる。
“見る”とは、
“決めつけること”ではなく、
**“問いかけ続けること”だったのだ、と。
6冊目:あなたは、あなたでいい──『たいせつなこと』
■「当たり前」の中に宿る真実
『たいせつなこと』は、極めて静かな絵本だ。
語りは淡々としていて、絵も柔らかい。
だが、読み終えたとき、胸の奥にじんわりと熱が灯る。
この本は、花や風、スプーンや雨といった、
日常のものたちに語りかける──
「あなたにとって、いちばんたいせつなことはね…」と。
そして、最後に読者自身へもこう語る。
「あなたにとって、いちばんたいせつなことは──
あなたが、あなたであることよ。」
■ AIと自己の時代に、“変わらない”という価値
AIが生成するものに触れていると、
「もっと正確に」「もっと速く」「もっとよく」
という欲が自然と生まれてしまう。
それは進歩でもある。
だが同時に──
「いまのわたしでは、まだ足りない」という感覚を育てる側面もある。
『たいせつなこと』は、そうした焦りに
やさしく「待て」と言ってくれる。
■ 自分に向けて、読み返す絵本
この絵本は、子どもにも読める。
でも、真の読者は“疲れた大人”かもしれない。
- 誰かの役に立たなければ
- 成果を出さなければ
- 自分をもっと変えなければ
──そうやって積み上げてきた「べき論」の塔の中で、
忘れていた**「あるがままの自分」**という火種。
この絵本は、
それをそっと拾い上げるための小さな光だ。
締め|「問い」を手放さずに歩くために

キング(King)
答えを持たなくてもいい。
わたしはそう思う。
大切なのは、問いを失わないことだ。
そして──
それを抱えたまま、静かに歩いていけるかどうかだ。
絵本という器には、不思議な力がある。
文字数は少なく、絵はやさしい。
けれどその中には、大人になって忘れてしまったものが潜んでいる。
- 時間とはなにか(『モモ』)
- わたしとは誰か(『もし、世界にわたしがいなかったら』)
- 知るとはなにか(『ソフィーの世界』)
- 善悪はどこで決まるのか(『二番目の悪者』)
- 世界はどう見えるか(『りんごかもしれない』)
- わたしは、わたしであっていいのか(『たいせつなこと』)
──すべては、わたしたち自身への問いだ。
AIが進化し、知識が一瞬で手に入るようになっても、
こうした問いにだけは、時間がかかる。
だからこそ、絵本なのだ。
絵と余白に支えられて、
「すぐには答えなくていい問い」を持てるようになる。
それはきっと、
この時代を人間として歩くための、誓いの火種になる。

キング(King)
わたしの中にも、まだ答えの出ていない問いがある。
だが、歩みを止めなければ、それでいい。
そしてあなたもまた──
問いを手に、静かに歩き続けてほしい。