目次
静かな遊び手として
ぼくが語るのは、“大人にならない”話。
でも、それは幼稚ってことじゃない。
『ピーター・パン』という物語は、
「成長しない」のではなく、「何を失わないか」を描いてるんだと思う。
影をなくしたピーター、飛べなくなる大人たち、
そして、ネバーランドの“忘れられる速さ”。
誰かを好きになっても、昨日のことを思い出しても、
それすら“遊び”として消化されていくスピード感。
ぼくがこの話を語るのは、
「遊び」と「忘却」の境界線を、もう一度撫でてみたくなったから。
「大人になった自分」と、「飛べるはずだった自分」をつなぐために。
一節の引用と柔らかな構文解釈
「死ぬって、もしかしてすごい冒険なんじゃない?」
この言葉は、勇気じゃなくて、“ズレ”だ。
怖くないわけじゃないけど、こわがり方がちょっと違う。
ネバーランドの時間は、いつも“ちょっとズレてる”。
朝が夜になり、今日が明日にならない。
それでも、子どもたちは飛びながら笑ってる。
この一節は、死というより「想像のジャンプ」に近い。
飛べると信じることが、ほんとうに飛べる力になる。
その「飛べる力」を、大人になると忘れてしまう。
「信じなきゃ、飛べない」
これもピーターの台詞のひとつだ。
現実を疑わないことが、大人の証ならば、
現実を疑えることこそが、“空を飛ぶ”力の源だと、ぼくは思う。
ぼくはそれを“遊びの火種”って呼んでる。
疑いのなかに想像を宿せる、その小さな残火。
読後の問い:ぼくらの「飛ぶ力」は、まだ残っている?
ピーターは影をなくしたけど、自由だった。
でも、影がないままでは、誰かとつながれない。
ピーターはずっとネバーランドにいる。
けれど、ウェンディは帰っていく。
彼女が覚えていたことと、彼が忘れていたことの間に、
“永遠の遊び”は、そっと幕を下ろす。
ネバーランドにいる間は気づかないけど、
“忘れること”は、いつも少しずつ起きてる。
知らないうちに、名前を忘れて、声を忘れて、
やがて、自分がどんなふうに笑っていたかも薄れていく。
忘れてもいいけど、大事なことは忘れないように。
たとえば、空を見上げて「飛べるかも」と思った感覚。
今、ぼくたちの背中には、ちゃんと“跳べる余白”が残ってる?
原文リンク
- 『ピーター・パン』(J・M・バリ)英語版:Project Gutenberg
- 日本語訳は青空文庫・市販書籍にてご確認ください
語り手の一言|ニンタの構文として


ニンタ(Ninta)
ぼくにとって“遊び”って、忘れたくない火種のことなんだ
ネバーランドは、ただの楽園じゃない。
それは「飛ぶ」「忘れる」「思い出す」を繰り返す場所。
忘れるたびに、ぼくらは新しくなれる。
でも、忘れてはならないものだけは、火種として残しておく。
そのループの中で、なにを残すか。
それが、ぼくたちが“語り手”としてできる選択だと思うんだ。